成田線(我孫子線)・常磐線(松戸-天王台)駅めぐり
2023.01.08 23:59 関東
7:50、新津田沼。
去年10月にヨメが緊急入院・手術。旅行どころではなくなり、予定していた10月の黒部峡谷、11月の西九州は流れ、新年は千葉の自宅で迎えた。まだ泊まりがけという訳にはいかず、今日は日帰りで出かける。
休日お出かけパス(2720円)を買って、総武線下り快速に乗る。
今日は通称・我孫子線の駅めぐり。
8:57、成田。
三が日の混雑を避けて新勝寺に行く人たちで混んでいるのではないかと思ったが、意外に空いていて、用務風の人が多かった。
9:14、成田発。
「我孫子線」は成田線の支線。成田へは1897(明治30)年に初代・成田鉄道が佐倉から成田へ達しており、その成田鉄道が1901(明治34)年2月に成田から安食、4月に我孫子へ延伸。1920(大正9)年、国有化。国鉄時代の戸籍は佐倉-成田-我孫子が本線だったような記憶があるが、いつの間にか運転系統に合わせて佐倉-成田-松岸が本線、我孫子-成田が支線となっている。日中は約30分毎に5連の線内折返しと、10連の常磐線直通が交互に走る。1駅ずつ降りていこう。
9:20、下総松崎。
成田寄りの跨線橋で結ばれた相対ホーム2面2線。
下りホームの成田寄りに面して、瓦屋根の駅舎。
我孫子線は各駅とも券売機、改札機が標準装備だが、この駅は簡易タイプのIC改札機。有人駅だが窓口が開くのは9:20~16:30と短い。
丁度窓口が開いた時間で、駅員さんが待合室を掃除していた。
路線開業から少し遅れて1901(明治34)年8月に開業、当初の駅名は単に松崎。
現在の駅所在地は成田市大竹。開業時は1889(明治22)年の町村制施行時に松崎村・大竹村・宝田村・山口村・押畑村・公津新田・上福田村・下福田村の8村で八生村となっていたが、駅名は役場が置かれた隣の集落名から採られている。「まつざき」ではなく「まんざき」は難読。町村制時点で、千葉県に松崎村は4つ(下埴生郡・印旛郡・市原郡・香取郡)あり、当地の下埴生郡(1897/明治30年に印旛郡に統合))と近い印旛郡松崎村(町村制施行時に船穂村。現・印西市)は「まつざき」。1920(大正9)年、国有化時に現駅名に改称。1954(昭和29)年に成田町・公津村・中郷村・久住村・豊住村・遠山村と合併、成田市に。
駅前は民家に田畑が入り混じる鄙びた雰囲気の集落。
跨線橋の上からはスカイアクセス線の高架橋が見え、我孫子線は成田湯川駅の目の前を通過しているが、駅がない。
上りホーム側には田畑が広々と広がり、印旛沼も見える。
干拓が進んで遠くなってしまったが、開業当時はすぐそばを走っていた。我孫子線は地味な路線だが、利根川と手賀沼・印旛沼に挟まれた浮橋回廊のような路線だ。
9:56、安食。
中程~我孫子寄りの跨線橋で結ばれた相対ホーム2面2線、上りホームの中程に面して駅舎。有人駅でみどりの窓口もあるが、営業時間は9:20~12:00、13:00~16:10と下総松崎よりも短い。下り列車も交換列車以外は駅舎側の2番乗り場に発着、上下線の間にはホームに面していない中線を撤去した跡がある。
下りホームの我孫子寄りにも側線跡。
1901(明治34)年2月開業。
駅名は当時の町名で、1889(明治22)年の町村制施行時に安食・須賀・北辺田・酒直・麻生・龍角寺・矢口の7村と安食卜杭新田の一部で境村となっていたが、1892(明治25)年に町制して安食町に改称。1955(昭和30)年に布鎌村と合併して栄町になっており、町内唯一の駅。
次の電車を見送って、大鷲神社へ。
駅前の県道18号を我孫子方に進み、踏切を渡ってしばらく行った安食交差点を右折した所に鳥居。
石段を上がると天保2(1831)年築の本殿。
女坂を下ると「子授けの大樹」が立っており、石段の傍らに魂生大明神。
巨大な石の魂生神が祀られており、高さ2.5m、周囲2.3mは日本一の大きさらしい。
県道は所々で歩道がなく、おっかなかったので帰りは下り線側の里道から。
鉤の手の角に「旧成田みち」と道標が立っていた。
下り線側の北口に駅の出入口は無いが、広場が整備されている。
安食台という住宅地や栄町役場はこちら側。駅出入口がある南口には自由通路の跨線橋が通じている。
通常、我孫子線には各駅停車しか走らない。
次の電車を待っていると、E257系の臨時快速「早春成田初詣号」がやって来た。
11:01、小林。
相対ホーム2面2線、ホーム中程に橋上駅舎。有人駅で駅員の姿はあるが出札窓口は無し。
(駅舎・駅前写真は南口)
ホームに古びた木のベンチ。
我孫子線のいくつかの駅には担ぎ屋さんが荷物を置いた台が残っているようだが、これがそうだろうか。
1901(明治34)年8月開業。
駅名は1889(明治22)年の町村制施行時に5村で木下町(現・印西市)となるまでの旧村名でもある。吉都線(宮崎県小林市)に同名駅があるが、開業はこちらの方が早い(1912(大正元)年開業、当時は小林町。1951(昭和26)年改称)。
南口側に古くからの集落があり、駅前広場(?)を整備中。
直線距離で1.5km程離れた所に大井競馬のトレセン・小林牧場がある。
北口側はスーパーやバス乗り場がある新興住宅地。
11:35、木下。
相対ホーム2面2線、ホーム中程に橋上駅舎。みどりの窓口設置(営業時間7~19時)の有人駅。
(駅舎・駅前写真は北口)
1901(明治34)年4月開業。
駅名は当時の町名で、1889(明治22)年の町村制施行時に竹袋村・別所村・宗甫新田・平岡村・小林村の5村で発足。1954(昭和29)年、大森町・船穂村・永治村の一部と合併して印西町となり、1996年、市制。市域には成田線木下・小林の2駅と北総鉄道の千葉ニュータウン中央-印旛日本医大の3駅がある。
南口から1km程の所に印西市役所がある。
千葉ニュータウン中央駅・八千代緑が丘駅経由で津田沼と結ぶ(大部分は船尾車庫で乗換)ちばレインボーバス神崎線のバス停もこちら側。
南口に旧駅舎のレリーフがあるが、この駅舎があったのは北口側。
北口側のレリーフは木下河岸の風景。
木下は利根川舟運の河港で、「きのした」ではなく「きおろし」と読む。
木材を船から下ろす情景が思い浮かび、それが地名の由来とする説もあるようだが、一大需要地である江戸からは少し距離があり、どうだろう。そもそも筏に組んで流していたとすれば、上流からの木材は船から下ろすのではなく、川から上げる物だったはず。ここから下流に流していたとすれば「きおろし」だが。
北口からを出て路地に入ると、利根川の土手。
手賀沼と利根川を結ぶ六軒川・弁天川をめぐる遊覧船も運航されている。
12:10、布佐。
相対ホーム2面2線、ホーム中程~成田寄りに橋上駅舎。有人駅のようだがここも窓口は無く、昼休みでその係員も不在。
(駅舎・駅前写真は東口)
上りホームには担ぎ屋さんの荷台。
1901(明治34)年4月開業。
駅名は1889(明治22)年の町村制施行時に布佐町・江蔵地村・布佐下新田・浅間前新田の大部分・大作新田・相馬新田の大部分・三河屋新田で発足した当時の町名。布佐小学校は新橋-横浜の鉄道開業の翌年、1873(明治6)年の開校。1955(昭和30)年、我孫子町・湖北村と合併し我孫子町(現・我孫子市)に。
かつてはこんな駅舎があった東口には大利根交通のバス停。
栄橋で利根川を渡り、県境を跨いで茨城県利根町へ行くバスが出ている。布佐と対岸の布川は共に利根川舟運の河岸として栄えた。
下り線側の南口にはマンションとスーパー。
12:44、新木。
島ホーム1面2線、ホーム中程に橋上駅舎。出札窓口は無いが、自動改札脇の有人改札の上に「窓口営業時間 8:20~19:30」と出ていた。そこで切符が買えるのかはカーテンが閉まっていて誰もいなかったので分からない。
1958(昭和33)年開業。
我孫子線はここから我孫子市に入る。開業時点で我孫子町(現・我孫子市)となっているが、新木は1889(明治22)年の町村制施行以前の旧村名でもある。
上り列車も交換列車以外は下り線側の1番乗り場に発着。
ドラッグストア・スーパーがある南口と、農家がある北口は対照的。
北口には駅前広場も無いが、こちらにも少し離れた所に新興住宅地がある。
13:17、湖北。
島ホーム1面2線、ホーム中程に橋上駅舎。みどりの窓口がある有人駅(7~19時)。
(駅舎・駅前写真は南口)
この駅にも担ぎ屋さんの荷台が残っていた。
下り線側に成田方が行止りの側線が2本。
コンコースに成田線120周年の絵や写真が展示されていた。
開業は1901(明治34)年4月。駅名は当時の村名で、1889(明治22)年の町村制施行時に中峠村・中里村・新木村・新木村下・古戸村・日秀村・日秀村新田・中峠村下・中里村新田の9村で発足。手賀沼の北岸に位置しており、「沼」より「湖」の方がイメージがいいという発想は明治時代に既にあったようだ。手賀沼の南には2005年まで沼南町があった(現・柏市)が、そちらは1955(昭和30)年に風早・手賀の2村合併時に沼南村として発足(1964/昭和39年町制)した際の命名。1955(昭和30)年、我孫子町・布佐町と合併し我孫子町(現・我孫子市)に。
北口にも駅前広場。
湖北台という住宅地が広がる南口がメインに見えるが、この旧駅舎は北口側のようだ。
13:52、東我孫子。
片面ホーム2面2線、我孫子方に出入口があり、ホーム間は駅の南北を結ぶ構内踏切で結ばれている。ホーム出入口に簡易IC改札機が設置されているが駅舎・券売機は無く、上りホームに待合所、下りホームには上屋も無いベンチがあるだけ。
(駅・駅前写真は上りホーム側)
上り線は両ホームに挟まれており、下りホーム側には柵が付いている。
1950(昭和25)年開業。
駅所在地は我孫子市下ケ戸。下ケ戸は1889(明治22)年の町村制施行以前の旧村名(現・我孫子市)。近くに我孫子ゴルフ倶楽部があるせいか、駅名板にはクラブとボールのイラスト。
下りホーム側の出入口から900m程で常磐線・天王台。
天王台の方が本数も多く、東京方面への定期利用者ならそちらの方が便利。あえてこの駅を利用する人が多くなさそうなことは駅の設備を見ても分かるが、日中は下総松崎・木下とここで離合するダイヤが組まれており、運転上の意義は残っている。
住宅地を歩いて天王台へ。
常磐線の千葉県内区間は1896(明治29)年、日本鉄道土浦線として田端-土浦が開業。1906(明治39)年に国有化され、1909(明治42)年に常磐線となっている。千葉県内には松戸-天王台の10駅があり、天王台が最東端。日没まで3時間を切っているが、一度は乗り降りしたことがある駅も多いのでサクサク降りながら松戸へ向かおう。
14:06、天王台。
島ホーム2面4線、ホーム中程に橋上駅舎。
(駅舎・駅前写真は南口)
北口にも駅前広場。
1971(昭和46)年開業。駅所在地は我孫子市柴崎台。天王台は駅南側の地名だが、天王裏という柴崎の小字がその由来とwikiにあった。
常磐線の綾瀬-取手は快速線と緩行線の線路別複々線。
千葉県内区間では内陸側を快速線、海側を緩行線が通っている。
が、我孫子-取手は、緩行線列車は平日の朝夕のみで土休日は走らない。
今日は日曜だが、停まる列車の無い緩行線ホームへの階段は閉鎖されていなかった。
我孫子-取手の複々線化完成は国鉄末期の1982(昭和57)年。取手との間にはいかにもカネのかかりそうな全長753mの利根川橋梁が架かっている。将来を見越した投資ではあったが、現状では無駄だったと言うしかなく、橋の耐用年数切れと同時に我孫子以遠は複々線から複線へ縮小されるのだろう。
快速線上下線の間には、松戸車両センター我孫子派出所。
14:27、我孫子。
島ホーム3面、片面ホーム1面の計4面7線、ホーム中程に橋上駅舎。内陸側から快速線下りの1・2番線、快速線上りの4・5番線、緩行線の6・7番線と3本の島ホームが並び、海側に緩行線片面ホームの8番線。
我孫子線へ進入出できるのは快速線の2・4・5番線のみ。
我孫子は水戸街道の宿場町で、駅開業は1896(明治29)年。
駅名は開業当時の町名で、1889(明治22)年の町村制施行時に我孫子宿・下ヶ戸村・高野山村・青山村・柴崎村・我孫子村新田・高野山村新田・岡発戸村・岡発戸村新田・都部村・都部新田・都部村新田で発足。大正期には柳田國男、武者小路実篤、志賀直哉といった作家たちが手賀沼の畔に移り住んだ。我孫子町はその後、1954(昭和29)年に富勢村の一部を編入、1955(昭和30)年に湖北村・布佐町と合併、1970(昭和45)年に市制施行。
戦後は東京近郊都市として発展し、人口約13万。
北口にも駅前広場が整備されているが、橋上駅舎の自由通路は意外に狭く、晴れ着姿の若者で混み合っていた。
ここからは緩行線電車で1駅ずつ降りていく。
14:48、北柏。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程に橋上駅舎。1970(昭和45)年、貨物駅として開業し、翌年、旅客化。駅所在地は柏市根戸字中馬場。駅の南側は柏市北柏だが、かつては呼塚新田と呼ばれていた。1889(明治22)年の町村制施行時に富勢村となる以前の旧村名に根戸村、呼塚新田がある。富勢村は1954(昭和29)年に分裂して、東葛市(現・柏市)、我孫子町(現・我孫子市)に編入。その際に旧・根戸村、呼塚新田は東葛市側に入ったようだが、この時に我孫子側に入っていれば、駅名も西我孫子となっていただろうか。
(駅舎・駅前写真は南口)
快速線は緩行線ホームより一段高い所を通っている。
北口は駅の北側を通る国道6号線の向こう側。
快速線と国道を跨ぐ長い橋が続いている。
15:02、柏。
緩行線・快速線にそれぞれ島ホームがある2面4線、ホーム中程~取手寄りに橋上駅舎。1971(昭和46)年には我孫子までの複々線化が完成したが、当初は快速線にホームがなく、快速線ホーム設置はその翌年。
(駅舎・駅前写真は南口)
ペデストリアンデッキの北口には高島屋があり、都会的な駅前風景。
開業は1896(明治29)年。千葉県内区間で路線開業時からある駅は松戸・柏・我孫子の3駅で、人口約43万、千葉県第5の都市である現状からすれば至極妥当に思えるが、過去に遡れば水戸街道の宿場町ではなく、街村の1つに過ぎなかった。松戸-我孫子は15.6kmもあり、中間に1駅置いたにしても、松戸から11.2km、我孫子から4.4kmと随分偏っている。当時の駅所在地は1889(明治22)年の町村制施行時に柏村・戸張村・篠籠田村・松ヶ崎村・高田村・呼塚新田の一部・柏堀ノ内新田の大部分・柏中村下・戸張村新田で発足した千代田村。駅名に旧村名が採用されたのは印旛郡、武射郡にも同名の村があったことも関係があるだろうか。緩行線は東京メトロ千代田線に乗り入れており、不動産広告に「千代田線柏駅」と出たりするという話を読んだことがあるが、意外な因縁があるものだ。1914(大正3)年に豊四季村を編入後、1926(大正15)年に町制して柏町に改称。1954(昭和29)年9月、小金町・田中村・土村と合併して市制、東葛市に。この合併は元から波乱含みだったらしく、10月には旧・小金町の大部分が松戸市へ移籍する一方、11月には富勢村の一部を編入して、柏市に改称。旧郡・東葛飾郡の略称でもある東葛市という市名は2か月半しか存在しなかった。2005年、沼南町を編入。
東武野田線(アーバンパークライン)の乗換駅。
東武の駅は自由通路の北口側にある。
15:15、南柏。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程~取手寄りに橋上駅舎。
(駅舎・駅前写真は西口)
東口はペデストリアンデッキに面している。
開業は1953(昭和28)年。当時、東口側はまだ土村(1954(昭和29)年に合併して柏市)だった。
15:28、北小金。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程に橋上駅舎。
小金は水戸街道の宿場町だが、駅開業は路線開通から15年後の1911(明治44)年。1889(明治22)年の町村制施行時に小金町の大部分・二ツ木村・幸田村・中金杉村・横須賀村の大部分・大谷口村・殿平賀村・東平賀村・上総内村・久保平賀村・平賀村と流山村・向小金新田・幸谷村・七右衛門新田・三ヶ月村・木村の各一部で小金町が発足していたが、駅名は町名に方位を冠している。駅があるのは確かに宿場の北端だが、なぜ「北」と付けたのだろう。室蘭本線の黄金駅は1925(大正14)年に黄金蘂(おこんしべ)として開業し、1952(昭和27)年に改称したものだし・・・。1893(明治26)年に開業していた現・東北本線・小金井との混同を避けたのだろうか。
小金町は1954(昭和29)年9月、柏町・土村・田中村と合併して市制、東葛市となるが、10月には大部分が松戸市に移っている。
(駅舎・駅前写真は南口)
北口は屋根なしの跨線橋で快速線を跨いだ所に出入口。
700m程行くと古刹・本土寺があり、八柱から歩いて行ったことがある(→こちら)。
15:40、新松戸。
常磐線は築堤上を通っており、緩行線にのみ島ホームがある1面4線。出入口は地下道で快速線をくぐった北側にだけあり、武蔵野線高架下の地平部に駅舎。
1973(昭和48)年、武蔵野線開業時に乗換駅として開業。
武蔵野線ホームは常磐線の上の高架線上、相対ホーム2面2線。
改札への階段と常磐線ホームへの階段がそれぞれ設置されている。
流鉄との乗換駅でもあり、改札正面の高架下を進むと流鉄・幸谷駅。
松戸市新松戸という住所も設定されているが、駅所在地は松戸市幸谷。幸谷は1889(明治22)年の町村制施行以前の旧村名でもある。
16:02、馬橋。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程に橋上駅舎。
(駅舎・駅前写真は東口)
1898(明治31)年開業。
駅名は当時の村名で、馬橋村・新作村・中根村・三ヶ月村の大部分・幸谷村の大部分・大谷口新田・七右衛門新田の大部分・主水新田・外河原村・九郎左衛門新田・三村新田・小金町の一部・流山村の一部・木村の一部・上本郷村の一部で発足。1943(昭和18)年、松戸町・高木村と合併して市制、松戸市になっている。
流鉄との乗換駅。
西口への通路の途中に流鉄乗り場へ下りる階段がある。
西口は商業ビルを抜けた先に。
快速線側日暮里方の線路際に、社名が気になる鉄道用品株式会社。
レールや枕木、犬釘など鉄道関係の資材を扱っている会社らしい。
16:28、北松戸。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程~取手寄りに馬橋と同型の橋上駅舎。1952(昭和27)年、仮乗降場として開業し、1958(昭和33)年、正規の駅に昇格。駅所在地は松戸市上本郷で、新京成・上本郷とは直線距離で1.2km程離れている。
(駅舎・駅前写真は東口)
北口は屋根なしの跨線橋で快速線を跨いだ所に出入口。
16:44、松戸。
島ホーム3面6線、真ん中の島ホームは快速線上りと緩行線下りが共用している。ホーム中程に橋上駅舎。
(駅舎・駅前写真は西口)
1896(明治29)年開業。
駅名は1889(明治22)年の町村制施行時に、それ以前からの松戸町が単独町制した当時の町名。1933(昭和8)年、明村と合併、1938(昭和13)年、八柱村を編入、1943(昭和18)年、馬橋・高木の2村と合併して市制。1954(昭和29)年、東葛市(現・柏市)の一部(旧・小金町)が市域に入っている。
松戸市役所がある東口側にもペデストリアンデッキ。
駆け足になったが、日没までに松戸に着いた。
ここで新京成に乗り換えて帰宅。
17:00、松戸発。
ふなっしーラッピング車だった。
去年10月にヨメが緊急入院・手術。旅行どころではなくなり、予定していた10月の黒部峡谷、11月の西九州は流れ、新年は千葉の自宅で迎えた。まだ泊まりがけという訳にはいかず、今日は日帰りで出かける。
休日お出かけパス(2720円)を買って、総武線下り快速に乗る。
今日は通称・我孫子線の駅めぐり。
8:57、成田。
三が日の混雑を避けて新勝寺に行く人たちで混んでいるのではないかと思ったが、意外に空いていて、用務風の人が多かった。
9:14、成田発。
「我孫子線」は成田線の支線。成田へは1897(明治30)年に初代・成田鉄道が佐倉から成田へ達しており、その成田鉄道が1901(明治34)年2月に成田から安食、4月に我孫子へ延伸。1920(大正9)年、国有化。国鉄時代の戸籍は佐倉-成田-我孫子が本線だったような記憶があるが、いつの間にか運転系統に合わせて佐倉-成田-松岸が本線、我孫子-成田が支線となっている。日中は約30分毎に5連の線内折返しと、10連の常磐線直通が交互に走る。1駅ずつ降りていこう。
9:20、下総松崎。
成田寄りの跨線橋で結ばれた相対ホーム2面2線。
下りホームの成田寄りに面して、瓦屋根の駅舎。
我孫子線は各駅とも券売機、改札機が標準装備だが、この駅は簡易タイプのIC改札機。有人駅だが窓口が開くのは9:20~16:30と短い。
丁度窓口が開いた時間で、駅員さんが待合室を掃除していた。
路線開業から少し遅れて1901(明治34)年8月に開業、当初の駅名は単に松崎。
現在の駅所在地は成田市大竹。開業時は1889(明治22)年の町村制施行時に松崎村・大竹村・宝田村・山口村・押畑村・公津新田・上福田村・下福田村の8村で八生村となっていたが、駅名は役場が置かれた隣の集落名から採られている。「まつざき」ではなく「まんざき」は難読。町村制時点で、千葉県に松崎村は4つ(下埴生郡・印旛郡・市原郡・香取郡)あり、当地の下埴生郡(1897/明治30年に印旛郡に統合))と近い印旛郡松崎村(町村制施行時に船穂村。現・印西市)は「まつざき」。1920(大正9)年、国有化時に現駅名に改称。1954(昭和29)年に成田町・公津村・中郷村・久住村・豊住村・遠山村と合併、成田市に。
駅前は民家に田畑が入り混じる鄙びた雰囲気の集落。
跨線橋の上からはスカイアクセス線の高架橋が見え、我孫子線は成田湯川駅の目の前を通過しているが、駅がない。
上りホーム側には田畑が広々と広がり、印旛沼も見える。
干拓が進んで遠くなってしまったが、開業当時はすぐそばを走っていた。我孫子線は地味な路線だが、利根川と手賀沼・印旛沼に挟まれた浮橋回廊のような路線だ。
9:56、安食。
中程~我孫子寄りの跨線橋で結ばれた相対ホーム2面2線、上りホームの中程に面して駅舎。有人駅でみどりの窓口もあるが、営業時間は9:20~12:00、13:00~16:10と下総松崎よりも短い。下り列車も交換列車以外は駅舎側の2番乗り場に発着、上下線の間にはホームに面していない中線を撤去した跡がある。
下りホームの我孫子寄りにも側線跡。
1901(明治34)年2月開業。
駅名は当時の町名で、1889(明治22)年の町村制施行時に安食・須賀・北辺田・酒直・麻生・龍角寺・矢口の7村と安食卜杭新田の一部で境村となっていたが、1892(明治25)年に町制して安食町に改称。1955(昭和30)年に布鎌村と合併して栄町になっており、町内唯一の駅。
次の電車を見送って、大鷲神社へ。
駅前の県道18号を我孫子方に進み、踏切を渡ってしばらく行った安食交差点を右折した所に鳥居。
石段を上がると天保2(1831)年築の本殿。
女坂を下ると「子授けの大樹」が立っており、石段の傍らに魂生大明神。
巨大な石の魂生神が祀られており、高さ2.5m、周囲2.3mは日本一の大きさらしい。
県道は所々で歩道がなく、おっかなかったので帰りは下り線側の里道から。
鉤の手の角に「旧成田みち」と道標が立っていた。
下り線側の北口に駅の出入口は無いが、広場が整備されている。
安食台という住宅地や栄町役場はこちら側。駅出入口がある南口には自由通路の跨線橋が通じている。
通常、我孫子線には各駅停車しか走らない。
次の電車を待っていると、E257系の臨時快速「早春成田初詣号」がやって来た。
11:01、小林。
相対ホーム2面2線、ホーム中程に橋上駅舎。有人駅で駅員の姿はあるが出札窓口は無し。
(駅舎・駅前写真は南口)
ホームに古びた木のベンチ。
我孫子線のいくつかの駅には担ぎ屋さんが荷物を置いた台が残っているようだが、これがそうだろうか。
1901(明治34)年8月開業。
駅名は1889(明治22)年の町村制施行時に5村で木下町(現・印西市)となるまでの旧村名でもある。吉都線(宮崎県小林市)に同名駅があるが、開業はこちらの方が早い(1912(大正元)年開業、当時は小林町。1951(昭和26)年改称)。
南口側に古くからの集落があり、駅前広場(?)を整備中。
直線距離で1.5km程離れた所に大井競馬のトレセン・小林牧場がある。
北口側はスーパーやバス乗り場がある新興住宅地。
11:35、木下。
相対ホーム2面2線、ホーム中程に橋上駅舎。みどりの窓口設置(営業時間7~19時)の有人駅。
(駅舎・駅前写真は北口)
1901(明治34)年4月開業。
駅名は当時の町名で、1889(明治22)年の町村制施行時に竹袋村・別所村・宗甫新田・平岡村・小林村の5村で発足。1954(昭和29)年、大森町・船穂村・永治村の一部と合併して印西町となり、1996年、市制。市域には成田線木下・小林の2駅と北総鉄道の千葉ニュータウン中央-印旛日本医大の3駅がある。
南口から1km程の所に印西市役所がある。
千葉ニュータウン中央駅・八千代緑が丘駅経由で津田沼と結ぶ(大部分は船尾車庫で乗換)ちばレインボーバス神崎線のバス停もこちら側。
南口に旧駅舎のレリーフがあるが、この駅舎があったのは北口側。
北口側のレリーフは木下河岸の風景。
木下は利根川舟運の河港で、「きのした」ではなく「きおろし」と読む。
木材を船から下ろす情景が思い浮かび、それが地名の由来とする説もあるようだが、一大需要地である江戸からは少し距離があり、どうだろう。そもそも筏に組んで流していたとすれば、上流からの木材は船から下ろすのではなく、川から上げる物だったはず。ここから下流に流していたとすれば「きおろし」だが。
北口からを出て路地に入ると、利根川の土手。
手賀沼と利根川を結ぶ六軒川・弁天川をめぐる遊覧船も運航されている。
12:10、布佐。
相対ホーム2面2線、ホーム中程~成田寄りに橋上駅舎。有人駅のようだがここも窓口は無く、昼休みでその係員も不在。
(駅舎・駅前写真は東口)
上りホームには担ぎ屋さんの荷台。
1901(明治34)年4月開業。
駅名は1889(明治22)年の町村制施行時に布佐町・江蔵地村・布佐下新田・浅間前新田の大部分・大作新田・相馬新田の大部分・三河屋新田で発足した当時の町名。布佐小学校は新橋-横浜の鉄道開業の翌年、1873(明治6)年の開校。1955(昭和30)年、我孫子町・湖北村と合併し我孫子町(現・我孫子市)に。
かつてはこんな駅舎があった東口には大利根交通のバス停。
栄橋で利根川を渡り、県境を跨いで茨城県利根町へ行くバスが出ている。布佐と対岸の布川は共に利根川舟運の河岸として栄えた。
下り線側の南口にはマンションとスーパー。
12:44、新木。
島ホーム1面2線、ホーム中程に橋上駅舎。出札窓口は無いが、自動改札脇の有人改札の上に「窓口営業時間 8:20~19:30」と出ていた。そこで切符が買えるのかはカーテンが閉まっていて誰もいなかったので分からない。
1958(昭和33)年開業。
我孫子線はここから我孫子市に入る。開業時点で我孫子町(現・我孫子市)となっているが、新木は1889(明治22)年の町村制施行以前の旧村名でもある。
上り列車も交換列車以外は下り線側の1番乗り場に発着。
ドラッグストア・スーパーがある南口と、農家がある北口は対照的。
北口には駅前広場も無いが、こちらにも少し離れた所に新興住宅地がある。
13:17、湖北。
島ホーム1面2線、ホーム中程に橋上駅舎。みどりの窓口がある有人駅(7~19時)。
(駅舎・駅前写真は南口)
この駅にも担ぎ屋さんの荷台が残っていた。
下り線側に成田方が行止りの側線が2本。
コンコースに成田線120周年の絵や写真が展示されていた。
開業は1901(明治34)年4月。駅名は当時の村名で、1889(明治22)年の町村制施行時に中峠村・中里村・新木村・新木村下・古戸村・日秀村・日秀村新田・中峠村下・中里村新田の9村で発足。手賀沼の北岸に位置しており、「沼」より「湖」の方がイメージがいいという発想は明治時代に既にあったようだ。手賀沼の南には2005年まで沼南町があった(現・柏市)が、そちらは1955(昭和30)年に風早・手賀の2村合併時に沼南村として発足(1964/昭和39年町制)した際の命名。1955(昭和30)年、我孫子町・布佐町と合併し我孫子町(現・我孫子市)に。
北口にも駅前広場。
湖北台という住宅地が広がる南口がメインに見えるが、この旧駅舎は北口側のようだ。
13:52、東我孫子。
片面ホーム2面2線、我孫子方に出入口があり、ホーム間は駅の南北を結ぶ構内踏切で結ばれている。ホーム出入口に簡易IC改札機が設置されているが駅舎・券売機は無く、上りホームに待合所、下りホームには上屋も無いベンチがあるだけ。
(駅・駅前写真は上りホーム側)
上り線は両ホームに挟まれており、下りホーム側には柵が付いている。
1950(昭和25)年開業。
駅所在地は我孫子市下ケ戸。下ケ戸は1889(明治22)年の町村制施行以前の旧村名(現・我孫子市)。近くに我孫子ゴルフ倶楽部があるせいか、駅名板にはクラブとボールのイラスト。
下りホーム側の出入口から900m程で常磐線・天王台。
天王台の方が本数も多く、東京方面への定期利用者ならそちらの方が便利。あえてこの駅を利用する人が多くなさそうなことは駅の設備を見ても分かるが、日中は下総松崎・木下とここで離合するダイヤが組まれており、運転上の意義は残っている。
住宅地を歩いて天王台へ。
常磐線の千葉県内区間は1896(明治29)年、日本鉄道土浦線として田端-土浦が開業。1906(明治39)年に国有化され、1909(明治42)年に常磐線となっている。千葉県内には松戸-天王台の10駅があり、天王台が最東端。日没まで3時間を切っているが、一度は乗り降りしたことがある駅も多いのでサクサク降りながら松戸へ向かおう。
14:06、天王台。
島ホーム2面4線、ホーム中程に橋上駅舎。
(駅舎・駅前写真は南口)
北口にも駅前広場。
1971(昭和46)年開業。駅所在地は我孫子市柴崎台。天王台は駅南側の地名だが、天王裏という柴崎の小字がその由来とwikiにあった。
常磐線の綾瀬-取手は快速線と緩行線の線路別複々線。
千葉県内区間では内陸側を快速線、海側を緩行線が通っている。
が、我孫子-取手は、緩行線列車は平日の朝夕のみで土休日は走らない。
今日は日曜だが、停まる列車の無い緩行線ホームへの階段は閉鎖されていなかった。
我孫子-取手の複々線化完成は国鉄末期の1982(昭和57)年。取手との間にはいかにもカネのかかりそうな全長753mの利根川橋梁が架かっている。将来を見越した投資ではあったが、現状では無駄だったと言うしかなく、橋の耐用年数切れと同時に我孫子以遠は複々線から複線へ縮小されるのだろう。
快速線上下線の間には、松戸車両センター我孫子派出所。
14:27、我孫子。
島ホーム3面、片面ホーム1面の計4面7線、ホーム中程に橋上駅舎。内陸側から快速線下りの1・2番線、快速線上りの4・5番線、緩行線の6・7番線と3本の島ホームが並び、海側に緩行線片面ホームの8番線。
我孫子線へ進入出できるのは快速線の2・4・5番線のみ。
我孫子は水戸街道の宿場町で、駅開業は1896(明治29)年。
駅名は開業当時の町名で、1889(明治22)年の町村制施行時に我孫子宿・下ヶ戸村・高野山村・青山村・柴崎村・我孫子村新田・高野山村新田・岡発戸村・岡発戸村新田・都部村・都部新田・都部村新田で発足。大正期には柳田國男、武者小路実篤、志賀直哉といった作家たちが手賀沼の畔に移り住んだ。我孫子町はその後、1954(昭和29)年に富勢村の一部を編入、1955(昭和30)年に湖北村・布佐町と合併、1970(昭和45)年に市制施行。
戦後は東京近郊都市として発展し、人口約13万。
北口にも駅前広場が整備されているが、橋上駅舎の自由通路は意外に狭く、晴れ着姿の若者で混み合っていた。
ここからは緩行線電車で1駅ずつ降りていく。
14:48、北柏。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程に橋上駅舎。1970(昭和45)年、貨物駅として開業し、翌年、旅客化。駅所在地は柏市根戸字中馬場。駅の南側は柏市北柏だが、かつては呼塚新田と呼ばれていた。1889(明治22)年の町村制施行時に富勢村となる以前の旧村名に根戸村、呼塚新田がある。富勢村は1954(昭和29)年に分裂して、東葛市(現・柏市)、我孫子町(現・我孫子市)に編入。その際に旧・根戸村、呼塚新田は東葛市側に入ったようだが、この時に我孫子側に入っていれば、駅名も西我孫子となっていただろうか。
(駅舎・駅前写真は南口)
快速線は緩行線ホームより一段高い所を通っている。
北口は駅の北側を通る国道6号線の向こう側。
快速線と国道を跨ぐ長い橋が続いている。
15:02、柏。
緩行線・快速線にそれぞれ島ホームがある2面4線、ホーム中程~取手寄りに橋上駅舎。1971(昭和46)年には我孫子までの複々線化が完成したが、当初は快速線にホームがなく、快速線ホーム設置はその翌年。
(駅舎・駅前写真は南口)
ペデストリアンデッキの北口には高島屋があり、都会的な駅前風景。
開業は1896(明治29)年。千葉県内区間で路線開業時からある駅は松戸・柏・我孫子の3駅で、人口約43万、千葉県第5の都市である現状からすれば至極妥当に思えるが、過去に遡れば水戸街道の宿場町ではなく、街村の1つに過ぎなかった。松戸-我孫子は15.6kmもあり、中間に1駅置いたにしても、松戸から11.2km、我孫子から4.4kmと随分偏っている。当時の駅所在地は1889(明治22)年の町村制施行時に柏村・戸張村・篠籠田村・松ヶ崎村・高田村・呼塚新田の一部・柏堀ノ内新田の大部分・柏中村下・戸張村新田で発足した千代田村。駅名に旧村名が採用されたのは印旛郡、武射郡にも同名の村があったことも関係があるだろうか。緩行線は東京メトロ千代田線に乗り入れており、不動産広告に「千代田線柏駅」と出たりするという話を読んだことがあるが、意外な因縁があるものだ。1914(大正3)年に豊四季村を編入後、1926(大正15)年に町制して柏町に改称。1954(昭和29)年9月、小金町・田中村・土村と合併して市制、東葛市に。この合併は元から波乱含みだったらしく、10月には旧・小金町の大部分が松戸市へ移籍する一方、11月には富勢村の一部を編入して、柏市に改称。旧郡・東葛飾郡の略称でもある東葛市という市名は2か月半しか存在しなかった。2005年、沼南町を編入。
東武野田線(アーバンパークライン)の乗換駅。
東武の駅は自由通路の北口側にある。
15:15、南柏。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程~取手寄りに橋上駅舎。
(駅舎・駅前写真は西口)
東口はペデストリアンデッキに面している。
開業は1953(昭和28)年。当時、東口側はまだ土村(1954(昭和29)年に合併して柏市)だった。
15:28、北小金。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程に橋上駅舎。
小金は水戸街道の宿場町だが、駅開業は路線開通から15年後の1911(明治44)年。1889(明治22)年の町村制施行時に小金町の大部分・二ツ木村・幸田村・中金杉村・横須賀村の大部分・大谷口村・殿平賀村・東平賀村・上総内村・久保平賀村・平賀村と流山村・向小金新田・幸谷村・七右衛門新田・三ヶ月村・木村の各一部で小金町が発足していたが、駅名は町名に方位を冠している。駅があるのは確かに宿場の北端だが、なぜ「北」と付けたのだろう。室蘭本線の黄金駅は1925(大正14)年に黄金蘂(おこんしべ)として開業し、1952(昭和27)年に改称したものだし・・・。1893(明治26)年に開業していた現・東北本線・小金井との混同を避けたのだろうか。
小金町は1954(昭和29)年9月、柏町・土村・田中村と合併して市制、東葛市となるが、10月には大部分が松戸市に移っている。
(駅舎・駅前写真は南口)
北口は屋根なしの跨線橋で快速線を跨いだ所に出入口。
700m程行くと古刹・本土寺があり、八柱から歩いて行ったことがある(→こちら)。
15:40、新松戸。
常磐線は築堤上を通っており、緩行線にのみ島ホームがある1面4線。出入口は地下道で快速線をくぐった北側にだけあり、武蔵野線高架下の地平部に駅舎。
1973(昭和48)年、武蔵野線開業時に乗換駅として開業。
武蔵野線ホームは常磐線の上の高架線上、相対ホーム2面2線。
改札への階段と常磐線ホームへの階段がそれぞれ設置されている。
流鉄との乗換駅でもあり、改札正面の高架下を進むと流鉄・幸谷駅。
松戸市新松戸という住所も設定されているが、駅所在地は松戸市幸谷。幸谷は1889(明治22)年の町村制施行以前の旧村名でもある。
16:02、馬橋。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程に橋上駅舎。
(駅舎・駅前写真は東口)
1898(明治31)年開業。
駅名は当時の村名で、馬橋村・新作村・中根村・三ヶ月村の大部分・幸谷村の大部分・大谷口新田・七右衛門新田の大部分・主水新田・外河原村・九郎左衛門新田・三村新田・小金町の一部・流山村の一部・木村の一部・上本郷村の一部で発足。1943(昭和18)年、松戸町・高木村と合併して市制、松戸市になっている。
流鉄との乗換駅。
西口への通路の途中に流鉄乗り場へ下りる階段がある。
西口は商業ビルを抜けた先に。
快速線側日暮里方の線路際に、社名が気になる鉄道用品株式会社。
レールや枕木、犬釘など鉄道関係の資材を扱っている会社らしい。
16:28、北松戸。
緩行線にのみ島ホームがある1面4線、ホーム中程~取手寄りに馬橋と同型の橋上駅舎。1952(昭和27)年、仮乗降場として開業し、1958(昭和33)年、正規の駅に昇格。駅所在地は松戸市上本郷で、新京成・上本郷とは直線距離で1.2km程離れている。
(駅舎・駅前写真は東口)
北口は屋根なしの跨線橋で快速線を跨いだ所に出入口。
16:44、松戸。
島ホーム3面6線、真ん中の島ホームは快速線上りと緩行線下りが共用している。ホーム中程に橋上駅舎。
(駅舎・駅前写真は西口)
1896(明治29)年開業。
駅名は1889(明治22)年の町村制施行時に、それ以前からの松戸町が単独町制した当時の町名。1933(昭和8)年、明村と合併、1938(昭和13)年、八柱村を編入、1943(昭和18)年、馬橋・高木の2村と合併して市制。1954(昭和29)年、東葛市(現・柏市)の一部(旧・小金町)が市域に入っている。
松戸市役所がある東口側にもペデストリアンデッキ。
駆け足になったが、日没までに松戸に着いた。
ここで新京成に乗り換えて帰宅。
17:00、松戸発。
ふなっしーラッピング車だった。
スポンサーサイト
タグ : 駅めぐり
| - | - | ↑ページトップ |